テレビではアフリカの飢餓が報道されていた。bandaidというユニットか組まれて、「we are the world」という 歌がうたわれていた。1985年という年は日本ではバブルと呼ばれる好景気の幕開けの年でもあったのだが、その 裏側に住む人々は飢えや貧困に苦しんでいた。と言うよりもその苦しみと、貧富の格差が大きく報道された年であった。

ボクはといえば、ちょうどインド旅行をした年であり、初めてその「貧困」といわれる世界を目の当たりにして 少なからずのショックを受け豊穣の国に帰ってきた年であった。

その二年後の1987年の夏、ボクはethiopiaの首都addis ababaにいた。

当時ethiopiaは 1975年のクーデターにより帝政を廃止し、臨時軍事評議会による軍部独裁の社会主義国家宣言から 12年目の年であった。そして臨時軍事評議会を国民投票で廃止しその議長であったメンギスツ・ハイレ・マリアムが 大統領に就任しethiopia人民共和国を樹立した年であった。

この社会主義一党独裁政治は旧ソ連・東欧諸国の 社会主義国家の崩壊、ベルリンの壁崩壊という事件のあった1990年頃に揺るぎだした。1991年1月にボクは帰国 したのだが、その年の5月反政府勢力に敗れたメンギスツ大統領がジンバブエに亡命し崩壊、7月にエチオピア 暫定政府が成立した。

ボクのいた1987年から1991年はまさに歴史が動いた時期であった。北部エリトリア、ティグライ州の反政府勢力 との間に内戦が激化していた。 24時から5時まで夜間外出禁止令が出ていた。銃口を向けられたことも何度もあ った。写真撮影もかなりの場所で禁止されていた。理由は治安維持とか国家秘密漏洩防止なんていうものだった。

首都addis ababaは標高2300メートルほどあって年間平均気温が20度、過ごしやすい気候である。 夜間は肌寒くさえあった。ボクの住んでいたアンバ子供村は首都から南に 230キロメートル、 内戦や飢餓で親を失った孤児4000人が暮らす孤児収容所だった。首都には3ヶ月に一回ぐらいの 割合で上京した。「都会」を感じた。アスファルトの道路が眩しかったりしたし、地方では見る ことのできないビルに感動したりもした。なによりも日本人に会えるということが嬉しかった。

このスタジアム周辺にはoさんやsさんが住んでいた。 上京すると必ずといっていいほど訪ねていた。そして酒を飲んだ。 addis ababaには色々な物が 売っていたし、インド料理店や中華料理店なんかもあった。米もあった。イタリア米の他にどう いうルートで市場に出回ったのか日本米もあった。

標高が高いので沸点が低く、炊飯がうまくで きないので多くの日本人は圧力鍋を利用していた。oさんも圧力鍋を使っていた。何度かシチュー をご馳走になった。それもシチューの元なんてものがないので、ホワイトソースから作るものだっ た。それが美味しかった。食べ物の思い出は時間がたつほどに味が出てくるように思う。

内戦や旱魃で国は混沌としていたが、治安はよかった。軍が管理していたからだろう。 夜間外出禁止令が出ていたのだが、カサンチェスなんていう繁華街の夜を一人で歩いてもそれほど身 の危険を感じることはなかった。1990年までは。

人々の内部はやり場のない不満が鬱積していて、少し圧してやれば出てしまうぐらいに膿んでいるよう に思えた。しかしそれは排膿されることなく硬いシコリとなって残ってしまうように感じた。管理され るということはそういうことなのかもしれないと思った。