蒲江町について

佐伯市からの峠道を越えると突然海が現れる。山道特有の薄暗い、そして少し湿り気を 帯びた風景から一転の別世界。

しかし、初めて訪れる人にとってはその風景が 海辺のものであると分かるまでには、少しの時間が必要かもしれない。複雑な地形が 海の出口を隠しているため、それは湖や池に見えるに違いない。 一見穏やかに見える蒲江町の集落であるが、過去にはこの地形がもたらす悲しい物語もあった。

蒲江町の誕生

蒲江町の古代史については文献や資料が少ないのではっきりしないということなのであるが、 『蒲江郷土史年表』によれば平安時代の天長二年(825年)に蒲江浦の王子神社が創建 されたとなっていて、その根拠となった王子神社の棟札が、蒲江町で最も古い記録であると されている。

海部郡(あまべのこうり)

大分県には北海部郡と蒲江町の属する南海部郡とがあるのだが、ニ郡にわけて呼ばれるように なったのは明治11年の郡制が実施されて以降のことである。

中世以来佐賀関町から蒲江町に 至る一帯を海部郡と呼んでいたようである。すなわち佐加(さか)、佐井(さい)、丹生(にう)、 穂門(ほと)の各郷である。海部という名前の由来は、海人(あま)が住んでいたためと いわれ、「豊後風土記」「日本書紀」にも取り上げられているそうである。

下浦

穂門郷に所属する佐伯荘をはじめて治めた佐伯氏が、秀吉によって豊後を除国された大友氏 の運命とともに佐伯を去って四国宇和島に亡命した後、1601年毛利氏が佐伯に入国する。

佐伯藩には本郷と呼ばれる26の村があり、海岸線は上浦(津久見市から佐伯市)中浦 (佐伯市から鶴見崎)、それ以南米水津村と蒲江町を下浦と呼んでいたそうである。

本郷としての下浦村には枝郷としての浦があった。現在の米水津村に6浦(間越浦、小浦、竹野浦、 浦代浦、色利浦、宮野浦)、蒲江町には入津浦に属する4浦(畑野浦、楠本浦、竹野浦河内浦、西野浦) と、蒲江浦に属する8浦(泊浦、河内浦、猪串浦、野々河内浦、森崎浦、丸市尾浦、葛原浦、波当津浦) の計12浦である。

南海部郡

明治になり廃藩置県で佐伯県となり、その後大分県に統合されたのが明治4年、翌5年には 大小区制が実施され大分県内の8郡を8大区とし、その下に小区を置いた。海部郡は 大分県第四大区となり、入津浦4浦が三十一小区、蒲江8浦が三十二小区となった。

明治11年に郡制が実施され、佐伯村に郡役所を置く南海部郡が誕生し、蒲江12浦は そのまま村になった。 そして同22年の市制・町制実施にて佐伯村が佐伯市になり 蒲江地域は上入津村、下入津村、蒲江村、名護屋村の4か村になる。明治44年には蒲江村が 町制をしき蒲江町になった。

蒲江町

昭和28年施行の「町村合併促進法」に基づきそれまでの4町村が対等合併し、同30年3月31日 をもって蒲江町が発足した。当時(29年度)の世帯数は3092戸、人口17012人であった。

辺境

海と山に囲まれている蒲江町は耕す土地も限られている。水田は畑野浦、蒲江浦、波当津など にあったのだが、現在は無いと思う。それでも僕が子供の頃、昭和40年代はじめの頃は、段々畑を 利用した温州みかん栽培を盛んに行っていたし、わずかばかりの土地を利用してサツマイモを 作ってた。

畑野浦トンネルが大正11年、轟トンネルが昭和31年に開通するまでは、佐伯市に行くに しても峠を越えなければならなかった。病人が出ると担いで山を越えて佐伯市の病院まで運んだと言う。 昭和40年代までは中学校に通学するのに1時間以上歩いて通学していた集落もあった。

文化9年の百姓一揆

文化9年(1812)年の1月に因美村の百姓杢右エ門、文七の兄弟が首謀者となって 中野村、因美村(以上現在の本匠村)、横川村、仁田原村、赤木村、上直見村、下直見村 (以上現在の直川村)の農民約4000人(一説には5000人)が一揆を起した。数日後鎮圧 され処分された。首謀者2人は死刑、流刑6人、所替8人という処分であったという。 流刑、所替された場所が蒲江町の深島と尾浦である。

深島はそれまでは無人島に近い離島であったので理解もできるが、尾浦は陸続きの 集落でありながら所替という処刑の場所に使われたのは、それほど開発もなされてなく、 開発も難しい地であったことは現在の尾浦を歩いてみても容易に想像できる。

この尾浦に定期バスが運行されたのはつい最近のことである。現在は米水津村からの 広域農道(豊後くろしおライン)と、国道388号線に続くふるさと農道尾浦地区線が開通して 交通の便も良くなったのではあるが、昭和40年代までは所謂陸の孤島と呼ばれるような所であった。 尾浦だけではなく蒲江町すべての地区が多かれ少なかれこのような状態だった。

漁業
いわし漁

『一次産業が主要産業。中でも水産業が基幹産業で沿岸漁業生産では大分県一を誇っています。』 (大分県庁「市町村ガイド・蒲江町」より引用)と言われる蒲江町は、昔から漁業の盛んなところで あった。

江戸時代、明治、大正時代いわしは食用としてよりも魚肥や魚油としての干鰯の需要が多く、 明治初期には大分県は全国3位とういわし漁獲高、干鰯生産高を誇った。 その多くは蒲江町を含む豊後水道沿岸である。昭和12年に巾着網(まき網漁)が蒲江浦 導入され漁獲高も多くなる。

15年戦争中はほぼ休業の状態にあったっため魚の量が増え、戦後は再び豊漁に わいた。しかし漁具の発達のもたらす乱獲によって、いわしの回遊が減り大分県全体の いわし類の漁獲高は平成2年の6万トンをピークに平成8年には約1万トンまで減少している。

ぶり養殖

昭和35年、大分県内で本格的なぶり養殖が隣の米水津村で始まった。蒲江町ではそれより遅れて 昭和47年に蒲江漁協で大分県の「同一海面での2種類以上の養殖の禁止」という見解を もとに「真珠母貝養殖漁業権放棄」と「ぶり養殖計画案」を可決し始まった。

ぶり養殖の稚魚採取漁「もじゃこ引き」もその頃から活発に行われるようになり、蒲江町に再び活況 をもたらした。それ以降生産量、生産金額ともに急速に増加したのだが、平成3年の 17000トン、144億円をピークに減少している。販売単価も昭和55年の1200円強を ピークに近年は1000円を割る年が続いている。

観光

蒲江町の魅力はなんといっても海とその風景であると思う。「黒潮の楽園」と言われるように 黒潮の分流が流れ込み、年間平均気温17度という温暖な気候をつくりだしている。 春には仙崎のつつじ、夏には畑野浦江武戸神社周辺などのはまゆう、秋は 高平山の野路菊が海の青を背景に美しく咲き乱れる。

夏は高山元猿海岸や波当津海岸などの渚は海水浴で賑わう。海岸線は季節ごとの変化を見せて、 訪れるものを魅了するに違いない。特に秋から冬にかけての海岸線の風景は、海の 色も夏より深みをまして美しい。

道路から見る海も美しいが、仙崎や高平山からは豊後水道その向こうの四国の島々まで 見渡せ、また夜は遠くの漁火が幻想的である。

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